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マニアな旅・散策

2017.08.18 update

「塩尾寺物語」~武庫川に時代は流れて~。

宝塚市にある塩尾寺は、「えんぺいじ」と読みます。阪急電鉄の「宝塚駅」から歩きだして宝来橋をわたりインドカレーの店の横を進み、住宅街を流れる川に沿って坂を登ってゆき、甲子園大学「至誠館」を横切るともう人気がなくなります。

道は歩みを進めるにつれて、アスファルトから次第に山道に変わってゆきます。坂道や曲がりくねった道を抜け、見晴らしのいい休憩所で標高の高さを目で確認して、鳥居の沢山ある稲荷に挨拶します。そのあとに続くきつい坂道を登り、坂道の途中の三っつの祠にお辞儀をしつつ上った武庫山の山頂にあるのが、伊孑志 武庫山(いそし むこやま)にある聖徳太子ゆかりの浄土宗の寺院です。現在は六甲縦断登山の宝塚側の最後の目印地として、登山者たちにはよく知られています。

塩尾寺の建立はまず、皇紀千二百六十四年、用明天皇(ようめいてんのう)のいらっしゃった時代(西暦五百八十六年)にさかのぼります。聖徳太子が若干、十四歳のころに神仏に誓いをたてて、その六年後の二十歳から四天王寺の建立が始まりました。四天王寺が完成されたとき聖徳太子は、長年の志を成し遂げた満足感と導きに感謝し、朝には仏を思いあおぎ見「南無阿弥陀仏」と称え、昼には仏の姿や功徳を思い描いて禅定を組み瞑想にはいり、夕には仏陀に対し心から信じ、尊敬することを態度で顕すために「南無阿弥陀仏」と称える、という生活を続けていらっしゃったと伝えられています。
そんな念仏三昧に入っていたある時の明け方に、はるか武庫山の上のあたりがみるみる明るくなって行き、阿弥陀如来様(あみだにょらいさま)、観音菩薩様(かんのんぼさつさま)、勢至菩薩様(しせいぼさつさま)の尊ぶべき三體(さんたい)仏様、三尊(さんぞん)が顕れ出でて来られるのを心の目で見ることができ、信心が神仏に通じたのだと感じ入り、たいへんに喜び、感謝されたということです。
聖徳太子が計画し、四箇院(しかいん)が目指した、修行を行う敬田院(きょうでんいん)、病の者に薬を出してあげる施薬院(せやくいん)、病院のような施設の療病院(りょうびょういん)、身よりのない者や現在でいう老人ホームのような施設の悲田院(ひでんいん)、この四つを建立すると言う願いが叶えられたと感じたのです。
太子は三尊が顕れ出でて来られたことへの感謝の意味を込めて「摂津国武庫七大寺」を建立され、観音菩薩像を安置されました。
武庫の七寺の伝承で、摂津国武庫七大寺は、塩尾寺、中山寺、小林寺、平林寺、円国寺、金龍寺、などの寺々だと伝わっており、塩尾寺には十一面観音菩薩がまつられていたと古い書物に記されています。
その後は時代が下って行くにつれて、次第に民衆の心が乱れてきてしまいます。
摂津近辺の信仰を集めていた塩尾寺も、民衆の心を映すかの様にまつりごとが乱れ、地震や飢きんなど、あまたの災害にさらされ巻き込まれてしまい、まさに末法の世、人々は信仰心を忘れ去ってゆきました。そして、塩尾寺も廃れた寺院として歴史の彼方に埋もれていったのです。

  • 左)寺入り口から
  • 右)街を一望

塩尾寺縁起によると、皇紀二千百八十一年~二千二百六年(大永元年~天文十四年)、室町幕府第十二代の将軍、足利義晴の時代(西暦千五百二十一~千五百四十六年)、このあたりに貧しく、ひっそりと暮らす女性がいました。自分の生活だけでなく、お隣さんの仕事の手伝いなどをするなど、たいへん働きものでした。年老いて体をわずらい、吹き出物に身も心も苦しむ日々になりながらも信仰心が厚く、中山寺を産土神として信仰し、観音様に朝な夕なに参拝に励み、信心を怠ることがなかったのです。
そんなある夜のこと、観音様が夢枕に立ち「お前は、前世の人生では心が狭く我が儘な振る舞いであった。そして人を苦しめても反省せず、笑っているような人間であった。その吹き出物はその時の恨みや業の現れたモノである、しかし、今回そなたの長年の信心が罪をつぐなった、武庫川の岸辺にある大柳の下(現在の塩尾寺近く)から湧き出でる出水に浸かり入り、體「からだ」を清めれば病は癒える」と告げて消え去りました。
目覚めた女性は、その夢のお告げを大変に有難く感じ、日が明るくなるのを待ちかねたように、さっそくその教えどおりに武庫川へ行き大柳を探しあて、體を洗うと、吹き出物はみるみるうちに治ったと伝えられています。
この時、湧き出た「塩からい水」が吹き出物を治す湯として、川面湯あるいは塩尾湯(しほをのゆ)と呼ばれ、現在の湯本町にある宝塚温泉の元湯になっていったようです。そして、この老女は観音に深く感謝し前世の行いを反省しそこの柳の木で観音像を刻み、寂れていた塩尾寺に祀られました。その観音像は「柳の観音」「塩出観音」と呼ばれるようになり、伝承に残っていた十一面観音像も整えられ、潮泉山(ちょうせんざん)の山号をいただき、潮泉山 塩尾寺として再興されました。寺には同じような病に苦しむ人々が訪れ、「伊孑志千軒」と呼ばれる門前町もでき、にぎわったということです。

晨鐘(じんじょう)が評判で、勤行 (ごんぎょう)の開始を知らせる晨朝(じんじょう)の鐘が山頂から響きわたり、その日一日の時間を鐘で知らせることで、寺の存在も知らしめていたのでしょう。塩寺晨鐘と呼ばれて、昭和の始め頃は観光名所としての記録があり、大晦日には除夜の鐘をつくために大勢の人が並んでいたようです。
現在の塩尾寺の入口には門柱があって、「トイレありません」の張り紙があるため安心して参拝できないなと思うのが正直な感想です。参拝を計画しても二の足を踏む状態です、寺院としてはとても心寂しいと思っています。
塩尾寺へ上る参道の途中には、「塩からい水」が今も湧き出ています。宝塚にある聖徳太子ゆかりの寺院としてもっと身近に感じてもらいたいと思い、大切にするために地域からも寺院に働きかけていい方に変わって欲しいものだと思っています。

名称

塩尾寺(えんぺいじ)

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眞砂屋 初穂

記譜する人

バレエ団に振付師、タイムキーパー、舞台監督、の三つを併せ持つノーテーターと言う職業があります。そのノーテーターのように、時の流れのあいだに零れていってしまった、いにしえの言葉を拾い集めて、“今”の風をあてて、時代の中で譜面のように流れる事柄を記す活動をしております。

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掲載情報は2017年8月18日の更新時の情報となります。
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